認知心理学と「正しい考え方の習慣化」(2004年8月)

東京大学大学院教育学研究科教授の市川伸一氏の著書「学ぶ意欲とスキルを育てる」(小学館)をもとに考えてみようと思います。
まず、私たちの塾の主眼としている「正しい考え方の習慣化」は、はたして認知心理学から見た場合、どのように位置付けられ、目的として正しいか、その価値はあるのかを考えてみたいと思いました。
認知心理学では学習を [入力情報]→[記憶・思考(情報の保存・加工)]→[出力情報] という流れとしてとらえています。
ある学習情報に対して、内的リソースとしての知識を使って内容を理解して要約し、蓄えとして記憶します。
そして、問題に対してやはり適当な知識を選択して、それをもとに考え加工して、文章なり図形なり音声なりを使って表現します。

ところが、学習につまずいている生徒たちを見ていますと、入力情報は取り入れるのだけれど、それからの処理の仕方がまずいために良い結果が生まれてこないことに気づきます。
どのようなパターンかと言いますと、まず情報を理解するのに必要な知識が乏しい場合、次に、答案を書こうとする意欲はあるが、記憶にアクセスしてどれを使うか判断したり、順を追って理論的に考えることがとても面倒なために、十分な処理しないまま思いつきだけで出力してしまう場合です。

必要な知識がなければせっかく入った入力情報も正確な情報として入力されないとか、何の意味も持たないという場合さえありえます。
言葉の意味を知らなければ内容を理解できないし、知識が間違っていたなら、その入力情報も最初から間違ったものになってしまいます。
特に社会科の教科書を生徒に読ませてみると顕著なのですが、漢字を正確に読めない、当然知っていても良さそうな歴史上の人物や出来事も読めない。
国語でも、ことわざとか慣用句、敬語表現を知らない。

両親を初めとするまともな大人や友達とまともな話をしたことがないのでしょう。
これは周りにいる大人の責任でもあります。
携帯やタレントやマンガ・ゲームなど遊びの知識は豊富でも、とにかくまともな知識が昔と比べるとだいぶ減ってきているし、そのことを恥とも思わなく育ってしまっています。

このことで思い出しましたが、今年の麹町学園の安田教育研究所、安田理氏の基調講演の中で私立中学を受けさせようとする親の動機の中に、公立小学校で出会った親たちからの逃走を挙げておられました。
保護者会や授業参観でも所かまわず携帯電話で話し出す親、親自身が茶髪金髪。
これでは子供だけに注意はできない。
大人自身が「人間力」をつけ、積極的に子供に小さいころから常識、理想、社会問題など勉強にたいする価値を伝えなければならないと思っています。

さて、もう一つのつまずきパターン、面倒で順を追って理論的に考えないので成績が伸びないパターンはとても多いです。
問い詰めれば知識はあるのに①それを面倒で使おうとしない、②知識を使うという思考過程を今までとってこなかったために誰かに言われなければ使うこと自体意識に上ってこない。
この問題の解決こそ私たちの唱える「正しい考え方の習慣化」です。

①に対してはとにかく注意しなくてはいけない。
よく考えて答えを見つけなければいけない、知識を使って正しく考えなければいけないとしつこく注意しなければならないのです。
指導者がすぐ立腹しては進歩はありません。
生徒がどこまで問題に食らいついていけるかその度ごとに判断していかなければなりません。
めげずに粘り強く「待つ」ことの大家でなければならないようです。
②も生徒自身の「気づき」の問題ですから、指導者が気づかせるヒントを発し続けなければならないでしょう。
どちらにしても指導者が大事な役割をすることになります。
また、ゆとりだといって易しい問題だけ取り組んでいても知識を使って深く考えるということは身に付きません。

「正しい考え方の習慣化」を習得していなければ、認知心理学で言うところの「学習」がそのパターン通りの機能を果たすことができないということが解ると思います。

Miyachi-Zemi

TOP

お知らせ 教育方針 入会案内 TOPIC 室長ページ